若葉小学校創立50周年(1)
11月17日、熊本市立若葉小学校の創立50周年記念式典がありました。
そこで私は何しに行ったかと言うと、
50年前の第1回新入学生として入学した当時のことを語ってくれという依頼を受けて、式典で話しをするために行ったのです。
若葉小学校の校舎です。
体育館の中で行われました。
この式典の中で私が何を言うか・・
原稿をそのまま見ていただく方が早いような気がしますので、原稿を見てください。
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みなさん、こんにちは。
私の名前は有働栄一と言います。
これから50年前の若葉小学校のことを少しお話ししたいと思います。
私は昭和37年4月に第1回新入学生として若葉小学校に入学しました。
私より上の学年は同じ年に泉ヶ丘小学校から編入という形で若葉小学校に来たわけです。その頃はまだ校舎や教室も少なく、上の学年の生徒達はずいぶんと窮屈な思いで授業を受けたのではないでしょうか。私たち新1年生にとっては小学校自体が初めての体験で、他に比べるものを知りませんから、ある意味こんなものなんだろうなと思っていたわけです。
校庭は広いけれども水はけが悪く、雨が降るとあちこちに水たまりが出来ていました。それも結構大きな水たまりで、梅雨時などにはそこにしばらくするとカエルが卵を産み付け、おたまじゃくしが泳いでいたなどということもありました。
今から50年前というと小学校の周辺もまだまだ畑が多く、民家も少ない状態でしたが、それでも若葉小学校を中心とした東部地区はその時期から住宅と人口がどんどん増えていったのです。ですから私たちが新一年生として入学した時にはこれから大きく増えていく地域のニュースとしてテレビカメラが校門のところで待ち構えていました。
ちなみにその頃は今と違ってテレビがやっと普及しだしたころで、もちろんカラーではなく白黒の画面でした。そしてテレビのある家の方が珍しく、子供たちはよく近所のおうちにテレビを見に行ったりしていました。
さてそれでは若葉小学校開校前後の校区周辺の様子はどうだったのでしょう。
まず、私が生まれた昭和30年の10年前の昭和20年に「太平洋戦争」あるいは「第二次世界大戦」とも言いますが、そういう大変大きな戦争が終わりました。
その頃はこの辺りから今の自衛隊駐屯地の先までの広い地域が「健軍」という地名でした。そして戦時中には、今の市電電停から自衛隊の先にかけてとても大きな「飛行機工場」がありました。その頃爆撃機などを作っていたそうですが、今からはとても想像できませんね。
そして戦争が終わった後は自衛隊が出来て、その周辺は広い原っぱのまま残っていました。私が低学年の頃までは今の第二高校、健軍東小、自衛隊病院の辺りは草ぼうぼうの原野みたいな感じでした。その中に建物の残骸のコンクリートがあったり、防空壕の跡があったりして、そこで遊んでいた記憶があります。聞いている皆さんにはたぶん想像がつかないと思うのですが、例えて言うと、阿蘇の草原の中に壊れかけたコンクリートの柱が何本も建っているような景色です。その頃はそんな不思議な風景がいたるところにありました。
そして健軍商店街も昭和30年代から少しずつ店が増えていくのですが、私が小学1年生の時くらいは店もそんなに多くなく、静かな街でした。ある初夏の夜、商店街の近くの住宅の垣根にホタルが飛んできたのを見た記憶があります。
その頃、今の動植物園はもちろんなくて、江津湖から庄口公園辺りにかけては湧き水の湧く沼地でした。きっとそこから飛んできたのでしょうね。
その他にも若葉小学校周辺は畑や小川も多く、魚や虫たちの種類も沢山いて、とても自然に恵まれた地域だったのです。
ところで皆さん達は今は遠足はどこに行きますか?私がよく憶えている遠足は6年生の時、新1年生も含めて皆で行ったお見知り遠足です。
その時、自衛隊の先の方に「健軍飛行場」という飛行場があってそこまで歩いて行ったのです。先ほど、昔自衛隊の辺りに飛行機工場があったと言いましたが、その時作った飛行機を飛ばすための飛行場が、戦後、熊本飛行場として使われていたのです。その場所は今の日赤病院あたりです。距離にすると約4kちょっとありますから、1時間以上かけて歩いて行ったのですね。6年生はともかく、1年生も一緒に歩いたのですから、よくがんばって歩きましたね。
たぶん、そのあとまもなく飛行場は今の益城空港に移転しましたので、飛行場を見る最後の機会ということで特別に行ったのではないかと思います。
その他には今の東稜高校が出来る前にそこには県の茶業試験場がありまして、茶畑とか椎の木林なんかがあり、そこへも遠足で行ったりしていました。
そういうことが楽しい思い出として記憶に残っています。
また、学校でもよく遊びました。昼休みなどには校庭でドッジボールをやったり、大勢で団子のようになってサッカーをやったり、寒い冬の日には教室で押しくらまんじゅうなどをしたりしていました。
皆さんは今どんな遊びをしていますか?
学校の様子も昔と今とでは、変わらない部分も変わってしまった部分も色々ありますね。木が多かったのは昔も変わりません。でも大きさはずいぶん大きくなりました。立派な体育館も昔はありませんでした。東門も立派な門になりましたが、昔は小さな東門がちょこんとついていた時期がありました。今でもその名残りだけはありますが、どこにあったか分かりますか?
さて、ここで皆さんに質問です。
皆さんの歳に50を足すといくつになりますか?
高学年の人達はすぐに計算できたのではないでしょうか。
59になったという人もいれば60になったという人や61になったという人もいるでしょう。この数字は50年後に皆さんがなっている年齢ですね。
想像できますか?
えーそんな先のことは想像がつかない、と思ったでしょう。
そう先のことはよく分からないですよね。
でも、一つだけ確かなことは、50年後には、若葉小学校が創立100周年を迎えるということです。
その時には皆さんの中から1人か2人、あるいは3,4人くらい、この壇上に立って50年前の思い出を話したり、挨拶をしたり、記念品を贈ったりしているかも知れません。
だから、今のうちにいっぱい遊んで、いっぱい勉強して、思い出をたくさん作っておいてください。
そして50年後の若葉小学校の生徒たちに「僕たちはこんなに沢山楽しいことをしましたよ」と話してあげてください。
そうする為にも、これから「若葉小学校に通っていて良かったな!」と思えるような生活を皆さん、送っていってください。若葉小学校は本当に素晴らしい小学校だと分かりますよ。
みんなで仲良くがんばってください。
私の話しはこれで終わります。
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