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Posted by おてもやん at

2008年11月30日

街の歴史(健軍)3

昭和18年健軍の地に完成した三菱航空機製作所は
昭和20年の終戦の年とともに工場の清算に入りました。

飛行場まで入れると140万坪もの土地を買収して工場を建て、
最大時18000人もの人員が働いた大工場です。
閉鎖されて、残った広大な土地は戦後の東部地区発展にとって
重要なベースとなったのです。

国有地となった三菱工場跡地にその後官公庁、諸学校、公共団体
公営住宅などが次々に移転、建設されてきます。

さて、三菱の社宅跡に出来た健軍商店街ですが、最初から商店の
集合があったわけではありません。
売却された社宅に住む人が増えだし、昭和25年ころからぼつぼつ
健軍電停付近に商店が出来始めました。
その後昭和28年の白川大水害を契機に、東部地区に移り住む人達
も増えだし、線としての商店街が少しづつ形作られるようになりました。


(その頃の健軍電停付近)

当時店舗数は約30店舗程度だったそうです。


(昭和30年頃の山陽堂)


店の店主たちが協力して商店街の組織作りを始めだしたのもこの頃です。
現在桜の開花時期になると大変にぎわう自衛隊通りの桜並木も、この頃
商店主たちが力を合わせて植えました。




昭和32年に「ニコニコ堂」の前身となる「銀栄会」というスーパーが
出来、34年には木製の片側アーケードが出来ました。
そして周辺の人口増加に伴い商店の数も増えていきます。

昭和40年には現在の「サンリブ健軍」の場所に「かめ屋」という
スーパーも出来て、集客力が増していきます。

45年に「かめ屋」は「大洋ショッピングセンター」に移譲され、
ますます広域からお客さんが集まってくるようになります。







その後昭和47年アーケード改装、48年大洋デパート火災で
「マルショク」が「大洋ショッピングセンター」を買収。
50年頃には「マルショク」(現サンリブ健軍)と「ニコニコ堂」の
両スーパーによる二つの核で繁栄期を迎えます。



さて、繁栄期や絶頂期ばかり続かないのは人の世の常。
その後の時代の流れはうねうねと蛇行を繰り返しながら分散して
いったようです。

商店街がいま抱える問題はいくつもあり、軽々に論じられることでは
ありません。
ただ言えるのは、過去の創業者たちはお客様に真摯に向き合い
真心こめて商売してきたということ。

私たちも今のお客様のことをもっと大事に考え、
もっとちゃんと向き合っていかなければならないのではないか。
そのような気持ちの部分にこれからの商店街復活のカギが
あるのではないかと、考えたりします。








  


Posted by おちゃいち at 22:03Comments(6)健軍商店街