2008年11月08日
お茶の来た道4「煎茶」

千利休に代表される茶の湯に使われたお茶は抹茶でした。
茶の湯は当時の上流階級の文化的な修養と遊びを兼ねたような
ものかも知れません。
それでは庶民はどのようなお茶を飲んでいたのでしょう。
資料によると庶民や農民は釜で炒ったお茶を日光で干して
作った「釜炒り日干番茶」とでも言うべきお茶を煮出して
(煎じて)飲んでいました。そしてそれを「煎じ茶」と
呼んでいたようです。
これは釜や鍋でお湯をわかし、この中に茶葉を投じて煮出します。
なかには木綿の袋に茶を入れて口をしばり、釜の中で茶葉が拡散
しないようした方法も現れます。今で言うティーバッグですね。
江戸時代には神社仏閣の門前や名所など、人が集まる場所に
「水茶屋」あるいは「茶屋」というお茶を飲ませる店が多く
立ち並ぶようになります。餅や饅頭なども売り、繁盛したようです。
どのようにお茶を出していたかが良く分かるのが鈴木春信画の
「笠森おせん」の画です。

(笠森おせん 鈴木春信 東京国立博物館)
これは江戸谷中の笠森稲荷前にある茶屋「鍵屋」の看板娘「おせん」
を描いた美人画です。おせんは江戸中の評判になるくらいの美人で、
おせん会いたさに客が引きも切らさずに来たそうです。
ここでは釜から柄杓で、茶を湯飲みに汲んでいるようです。
火にかけて煎じていたのですね。たぶんお湯の色は今と違い、
薄茶色に近い色ではなかったかと思います。
ここで、お茶の製法を整理しますと、抹茶は最初に蒸してその後
揉まずに弱火で乾燥させます。対して煎じ茶は釜などで熱を加えた後
に揉んで、日に干したり弱火で乾燥させたりしていました。
そして、それぞれの良いとこ取りをしたようなお茶が現れました。
それが煎茶です。
完成させたのは宇治の永谷宗円(子孫の一人が永谷園を創設)です。
これは蒸したお茶を焙炉(ほいろ)と呼ばれる道具で、熱を加えながら
揉んで乾燥させる方法で、現在の煎茶と同じものです。
従来の黒いお茶に対して青製と呼ばれました。
煎じ茶から煎茶に変わるためにもう一つ必要だったのが急須の
普及でした。中国から日本にもたらされた急須は、この頃今のような
形になり広がっていきます。
こうして煎じる(煮る)のでなく、淹れる(いれる)お茶が普及して
いくのです。ただし、釜炒り製のお茶も庶民のお茶として残って
いきます。
こうしていくつかのお茶が混在したまま幕末を迎えます。
明治期の入るとお茶が日本の経済を支える一翼を担うことになります。
そのいきさつは次回に・・。

(蒸したお茶を熱を加えながら揉むのが焙炉(ほいろ)です。
下に薪や炭で加熱します。力を加えるから、構造を丈夫にする必要があった)

Posted by おちゃいち at 21:25│Comments(0)
│お茶の歴史